母に会う

久しぶりに母に会った。
母と接する時の我々姉妹は、慎重だ。

お互い、瞬時に感情が暴風域に入る事があるため、(予測不能)
コントロールするため、事前にひと呼吸置く。
というか、よし、と気合を入れて会う。

お互いのNGワードにうっかり触れると大変な事になる。
地雷をカチリと踏んでしまったら、それを見過ごさずに
最後まで爆発を見届けねばならない。

そしてそれは勿論、踏んだ方が悪い。
(気分的にはコントで爆発してアフロヘアになる気持ち。
ブスブスと黒焦げになる覚悟を毎度決めねばならぬのだ。)

面会時間は三時間程度、としばらく前から決めている。
そして会ったらなるべくその後二ヶ月は会わない方が良い。
これもお互いの為なのだ。
より良い時間を過ごす為、防具のないフェンシングの決勝戦にならない為だ。

それもこれも我々が親子であるため、
全く歯に衣着せぬ会話をする為である。
だから仲悪いわけじゃ無くて本音トークしすぎるせい。

他人だったら同じ会話内容でもニコニコ穏やかな気持ちで話せるのに
血が繋がってると何故こうなるのか、、、
人体の、というか森永家の不思議。
(皆が皆こうじゃないものね)

天気の良い国体道路をオープンカーで走るように会話が進んでいると思ったら、ふいに一輪車で火がついた縄の上を走っているような展開になる事もある。
意図せずに。

とても他人に見せられた光景ではないが、
他人がいる状況、レストランとかの方が逆に白熱してしまう。
絶対周りはひいている。

とまあ長々書いてしまったが、昨日は非常にうまく行ったケースだった。(天に感謝、アーメン)

母と、母の友人(姉の同級生のママ友)と知り合いのアナウンサーの朗読会に行った。
(おそらく母の友人がいる事で彼女の感情が多少中和されるのだ!)

しかし朗読会って初めて行ったんだけど、もんのすごい左脳使うよ!!
一切の映像ヒントがない中で、1人の語りだけでイメージを作らなきゃいけないから実はすごい集中力がいる行為なんだなあと思った。

しかも話が唐突に始まるから、「ちょちょ、ちょっと待って、、、」
と慌ててついて行く感じだった。
時代背景も江戸とか、現代じゃないから、
何故か英語の聞き取りテストのような体。

映像が頭の中で見え出したらこっちのものだが、
そこに至るまでが結構難しい。

しかし思うのだけど、何故年取ると江戸時代とか時代物の世界を好むのかな。
親の世代も、決して幼少期に着物着るほどの時代に生まれ育ったわけじゃないのに、、、謎。

三本仕立ての朗読会だった。
山本周五郎と、藤沢周平の原作。
どちらも今まで読んだことなかったんだけど、
パンフレットに書いていた2人のペンネームの由来にちょっと感動してしまった。

どちらも、作家本人がお世話になった人達の名前らしい。
山本周五郎さんの影には、彼が作家になるのを応援してくれていた
「山本周五郎」さんがいて、藤沢周平さんの影には、若くして亡くなった妻とその藤沢姓の親戚がいる。

なにかの影とか支えって、知らなかったら一生知らないままだよね。
でもそれがなければ絶対それはそこに存在しなかったのだろう。
そして名前って単なる音で物質としては存在しないのに、
形ある物より長く残るのも、不思議な事だ。

ワインボトルの中身は無くなっても、
瓶とラベルは残る。
それから、瓶とラベルがあるからこそ、ワインが存在する。

ちなみに冒頭の母の話に戻ると、
母は24-25才の頃、ヌードモデルをしていた。
友人の彫刻家の前で。

その像は、今も門司港の文化センターの前にある。
たしか「曙光」というタイトルだ。

それを作った彫刻家は、26歳でこの世を去った。
父が教えたバイクに乗っていた彼女は、
トラックにはねられた。

彼女の葬式でうちの両親は知り合った。
たしかそういう話だ。

おそらく35年くらい前の、
それはそれは昔の話だ。