第二回、とうちゃんの個展

先週に引き続き、今度はまろと二人で
とうちゃんの個展第二陣を見に行って来た。

写真を取り損ねたのが悔しい、、、
まあ「ホームページに載せるなよ」と言われているから
ここで見せられないんだけど、、、。

今回は現在74歳(?)のとうちゃんの20歳頃の貴重な作品まで見れた。
よく保管してたなあ。

先生の作品には、よく国の地形図がモチーフとしてよく出てくるので、
理由を聞いたら
「その国の形は、誰が見ても同じだろう」との事。
確かに。
例えば「日本」を表現するとして
漢字表記の日本、にっぽんやJAPAN、和柄や国旗、
表現出来るイメージはいろいろあるけど、
言葉の通じない外国人とかには
全然別の認識かもしれない。
でも、その国の形は例え地球外生命体にとっても同じだなあ。

そういうわけだったのか、と納得しつつ、
「でも全員がいろんな国の形を把握しているわけじゃないですよね。

言われないとわかんない人多いですね」
と言ったらとうちゃんは
「学のある人だけが見て理解すればいい。
以前ちゃんとこれがどの国であるか当てた外人はいる」
と言っていた。
見る物の学力レベルを要求される、グローバルな作品であった。

感心したのは、私達が椅子に座ってのんびり話していたら
ギャラリーに入ってきた男の子。18歳で高校を卒業したばかり。
基本的にお客さんはとうちゃんと同年代の年配の方が多いのだが、
私達以外に若い人がいるという事は、先生の教え子だろうと思っていたら、

そうではなく、このど田舎のギャラリーの近所に住んでいる現代美術愛好家の男の子だった。
(よく考えたら我々はとうちゃんの60歳の時の最後の教え子なのだから、一番若い教え子は我々だけなのだ。)

なんていうか、、、
こんな子いるなら日本も希望があるよ…!!
と思うような若人であった。

私もそこそこ現代美術詳しい方だが(いや本当かじった程度だけど)、
18歳なのに、私よりはるかに知識がある。
私みたいに親の影響かと思ったら、
そういうわけでもなく完全に独学で、
高校も、優秀な高校だが特に芸術専門というわけでは無いので、
一人で美術活動をしているそうだ。
来月は1人で博多でインスタレーションの個展をするそうで。

将来は現代美術家になるのが夢だそう。

とうちゃんも感心するくらいの子だった。

なんか、最近こういうすごい若者にちょいちょい出くわすなあ。

で、話を聞いてたらどうも四月から私達の大学の美術科に入るそう。
(私とまろは高校と大学が同じ。コースは違うが二人ともデザイン科)

「設備はいいけど、やる気ある人の方が少ないから、君みたいにすごい子は来るべきじゃないよ」とついつい言ってしまう。
「うーん、まあ在学中に外部に先生作ろうとは思ってます」と言っていた。
「大人しか話合わないでしょ?」
「まあ同年代と話すと何言ってんのって感じですけど、
でもやっぱ同年代の知り合いが欲しいです。ちょっと狂ってるくらいの人がいい」

あんなバスが五時間にやっと一本の場所に
モンスターみたいな子がいるもんなんだなあ。

そのギャラリーにいる人たちは、先生や観客も皆現代美術に馴染みが深いので、
「もっと広く普及して欲しいなあ、必要なものだと思うから」と言っている方がいた。
私は「うーん、人間は分かりやすく楽なものに行ってしまうから、
すでに漫画やアニメやインターネットが普及してて、あえて現代美術が普及するのは難しいだろな」
と思っていた。かなり人生の先輩なので、
私の意見は言ったり、言わなかったり。

うちの姉などはごくごく一般の感覚の人で、
そういう人はやっぱ美術館つまんなそう。
まず一緒に来ないね。

それだったらももクロのライブかワンピース展に行くはず。
多分現代美術=わかんない、難解=つまんない
という図式が頭の中に出来ちゃってるんだろな。
でもまあ、別に人々はそれぞれが必要な物にお金払えばいいと思うし。

必要な物が残って芸術になるんだろうとも思う。

でも会話の中で、先生の奥さんが
「現代美術の良さは、身近な物に美を見出せるのが利点」
と言ってたのが、とても納得。

そうなんだよね、
その辺のなんでも無い物を綺麗だと特別に思えたほうが、人生は得。
そう思う。

(こないだスーパーであまりにキャベツが綺麗な真ん丸で美しかったので
買う予定でも無いのに買ったのを思い出した。
これを自分で「美し買い」と名付ける事にする。)

それから、見に来ていたお客さんが
「松島先生の描くフルーツや植物は、とっても新鮮なのよね」と
言っていたのも、改めて言われりゃ本当にそう。
先生の内面はあんな感じなんだろう。
いっつもムスっとしてんだけどね。

卒業生、私ら以外にも他に誰かいるかなと思ったら、
全然誰にも合わなかった。
もしかしたらDM私くらいにしか出してなかったのかな、、、
その可能性は高い。
もっと広めれば良かった。
(まあ、今回初めてど田舎のギャラリーで個展したけど、
本当に知り合いしか来ないから、街中でやるときみたいに知らないいろんな人が来るよりいいよ、と奥さんが言っていた。)


帰りに、駅がそこそこ近かったから、
学生時代にちょくちょく泊めてもらってたまろの実家に突然お邪魔した。

予告なしだったのに、晩御飯までご馳走になる。

この約10年の間に、
駅前の風景はすっかり変化し、
彼女のお父さんは亡くなり
飼い猫も亡くなり、
トイレの壁紙も変わり、
庭に猫の墓が出来ていた。

でもまろの描いた油絵(ほとんどとうちゃんが描いた)も未だに階段にあったし、

おばちゃんもそのままだった。

17歳くらいの時、よくこの家で牛柄のパジャマを着て
勝手にゴロゴロしていた。(パジャマをコレクションしてて、、、牛は三種類あった)
そして、飼い猫のメイちゃんは私に全く懐かないまま、
20年の生涯を終えた。


残るものって何だろう。
残るものとは変わらない物だ。
生きている物で変わらない物はないと思うけど、
生きてない物は残る。

まろんちの階段の
ほとんどとうちゃんが描いた

まろのかぼちゃの油絵が
そこにずっとあって良かった。