先生の個展

週末、友人と先生(とうちゃん)の個展を見に片田舎まで足を運んだ。

 

うーん、なんというか胸が一杯になって、言葉が出なかった。

 

先生いるかどうか分からなくて行ったけど、

ギャラリーに入るとすぐに、変わらず、そこに、先生がいたので、

実は半泣きだったけど、

まあ空気を壊すので、

それはなかったことにした。

 

三人で15年ぶりの、美術の授業を受けた。

 

コンテンポラリーアートの4つの法則」

できる限り遠くに行くこと
不思議であること
日常的な表現、素材 (=リアリズムがあること)

整合性が無いこと

 

 

 

なんというか、幸せだな、と思っていた。

話を聞きながら。

 

15年経っても、尊敬する先生がそのままで、

あの頃十代だった私達が30になって、

人生いろいろあっても

学校ではないどこか片田舎のギャラリーで

こうしてまたとうちゃんの絵を見れるんだ、と思うと。

 

授業を受けるということを

学生の時は当たり前のように感じていたけど、

実際はいろいろな事が重ならないと実現できない

あまりにも貴重な時間なんだなあと。

(多分大人になればなるほど、大好きな先生の授業を

当時と同じクラスメイトの友達と受けるなんて

ほとんど奇跡みたいなものになるだろう。)

 

それから、

話の最中に、とうちゃんはキース・ヘリングの名前を出した。

「あのエイズで死んだ奴、なんだっけ」

キース・ヘリングと言えば、高校一年の体育祭のパンフレットの表紙を私が描いたとき、

先生が、「これはキース・ヘリングっぽいから、そうしよう」と言って

無理矢理ってわけでもないけどヘリングっぽく仕上げた。

(あの時、まだ入学間もなくて私は全然周囲になじめてなかったなあ。)

 

そのパンフレットの事は話さなかったけど、

多分、生徒一人一人の絵のイメージが

とうちゃんの脳細胞の中に無意識で残っているのだろう。

あの表紙、今ではもう覚えてるのはこの地球上でおそらく

わたしととうちゃんだけだ。

15年前の体育祭のしおりの表紙なんて。

(多分本人に聞いたら覚えてなさそうと思うんだけど、

あそこでキース・ヘリングがたまたま出てきたのは

深層心理が覚えていたのだろうと思う。)

 

私のこのホームページをiPadで見せたら、

「やっと絵を見せに来たな」と言っていた。

とてもとうちゃんに見せれるものじゃないと思って、

ずっと見せなかった。

 

今でもまだ全然未完成で見せれる代物じゃないなあと思うけど、

「好きで描いているな、わかるぞ」ととうちゃんに言われると

やっぱり嬉しいのだった。

 

とうちゃんは、たくさんの自分の絵に囲まれて

「どうだ、いいだろう」と自信満々だった。

あーああいう風になりたいものだ。